#32【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
天の章、第三十二話更新しました。
お楽しみください。
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#32【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
「犬御神(いぬみかみ)」
その声は聞いたこともない、女の声だった。
凛として、 はっきりしているが、どこか雅な喋り口調であった。
「なんと哀れな姿よ。嘗(かつ)ての威光はどこへやら。私の目に今の主は、傷つき、やせ細った野良犬と同じ。主に従う心を失い、帰る場所を無くして辺りに噛み付く獣のようよ」
違う、と叫びたかった。
胸にわだかまるこの感情は、一体どこからやってくるのだろうか?
今までにない、重く、どす黒い感覚がする。
「今や、冬の姫も王を主に殺されて半信半疑となり、自らの土地でそのような蛮行をされた竜田も困惑している。 白天社も焼失し、最早帰る巣は無くなった…。主は、一人なのだ。前も、今も。寄る辺の無い孤高の破壊神…」
蒲公英は、自分の意思で行動する術を忘れていた。言うなれば、衝動が自分を立ち上がらせていた。
何か熱く、滾(たぎ)るものが自分の中で瞬時に湧き出て、知らぬ言葉が紡がれる。
「今、なんと?」
わなわなと震える全身は、最早制御もままならなかった。
「蒲公英(ほくよう)!」
蒲公英の口から滑るようにして出た声は、地を這うような声だった。
目の前の女は前下がりの肩ほどまでの黒髪を揺らし、微笑んだ。
が、その目は凍てつくような光を鋭く光らせていた。
「狸寝入りとは幼稚な。 どこの誰に吹き込まれたか知らぬが…」
「聞こえなかったのか、草。もう一度言え、と…言ったのだ」
誰の声なのだろうか?
蒲公英は自分ではないような感情、それと共に湧き出る力と、言葉が出ている事を不思議に思いつつも、自らを止めようとも思わなかった。初対面の者に対する言葉とは到底思えない言葉遣いではあるが、その戸惑い以上に腹から怒りがこみ 上げてきていたのだ。
相手の女も警戒したのか、ちらりと燐を昇らせて、やや前屈みとなった。
「白天社は闇者の手によって焼失した、と言ったのだ。 四面楚歌の主に、最早帰る場所は無い。おかげで私の役割が変わってしまった」
と、彼女は何かを牢に投げ入れた。
それは木の板に「安寧」と書かれた、白天社の入り口にある筈の札であった。
黒く焼け焦げたそれは、色を完全に失っていた。
すると次の瞬間、頭の中が真っ白になったかと思ったら、目の前に白い布が見えた。
それと同時に衝撃を受け、蒲公英は寝台に尻餅をつく。
その白い布が黒冬の腕であると、蒲公英はしばらく気が付けなかった。
と、いうのも。まるで濃厚な夢を見ていたところ突然起こされ、まだ寝起きのような感覚がしばらく続いたからだった。蒲公英は額の汗を拭う。いつのまにか、部屋の温度が異様に高くもなっている。
「感情に身を任せるな! 千蘇我(ちそが)を破滅させるつもりか!?」
目の前の黒冬(こくとう)は眉を吊り上げながらも、正面を見据えて厳しい口調だ。
何をそんなに怒りをあらわにしているのか、と前を向けば…。
目の前の柵はどろどろに溶けており、先端は赤く燃えていた。
不思議なことに、それに纏(まと)っているのは白い炎であった。
溶けて大穴の開いた柵の前の女は、大きな鎌をその手に持っており、防御の型を取ってはいるものの、酷く動揺しているように見える。
「一体、何が…?」
蒲公英が恐る恐る呟くと、女ははっと気がつき、歩を進めてきた。
何か、使命感があるような面持ちである。
が、 一歩牢屋に踏み込むと女は動きを止めた。
怪訝そうに蒲公英がそれを見ていると、女は体を蒲公英に向けたまま、目だけを長い前髪の間から黒冬に向けた。
「北の守護者か。女神殿の力が封印されんとしている。龍の呪を持ちながら、斯様(かよう)な呪縛の陣を敷くとは…。 少々、主を侮っていたやもしれんのぉ」
釣り目の中の、大きく、黒い瞳が微かに笑った気がする。
すると、先ほど案内をしていた者がこちらに駆けてきた。
蒲公英はそれに戸惑うが、二人は動じもしない。
「我が名は菘(すずな)。 春の七草が精霊である。犬御神の力、少々試させて貰ったぞ」
それから彼女は動かなかった。
瞬きもしなかった。嫌な予感だけがする。
するとそこに、時間になったのか看守がやってくるが、この牢の状態を見て叫んだ。
「な、なんという事だ!?誰か! 誰かぁー!!」
「危ない!」
さきほど案内していた男がそう叫んで背を向けた瞬間、菘と名乗った女の指がぴくりと反応した。
無意識に叫んだ蒲公英の目の前は、瞬時に砂煙に覆われた。
暫く無音と砂埃が続いたが、砂埃が金雲となり、黒冬が構えた直した時、風が一気に視界を開けさせた。
濁流のように雲が目の前を流れていき、肺に心地よい空気が代わりに流れ込んできた。
目の前には相変わらずの仏頂面の女の髪だけが揺れる。
「馬鹿力め…」
黒冬が呟くと、女はまるで息をするかのように鎌を振り、構えなおした。
何が起きたのかと黒冬の視線の先を見ると、自分たちの後ろの壁に、綺麗にくりぬかれたような大穴が開いていた。真っ黒な夜空に室内の埃と金雲が吸い込まれていく。
「日の当たらぬ場所は好まぬのだ」
菘はほっと息をし、前髪を耳にかける。
それに違和感を感じていると、黒冬は蒲公英の膝を叩いた。
「一喜一憂するな。 気を張れ。蒲公英」
叩かれた膝から緊張が伝染したように、 蒲公英ははっと身構えた。
思えば、その穴と自分たちの体の距離はほぼ紙一重で、危ないところであった。
この壁の大穴の力が自分に加わっていたいたかと思うとゾっとする。
しかし…。一体、自分はどうしたというのだろうか。先ほどから、何にも身が入らないでいる。
護衛をしていた時にこんなことはなかった。日常でも気を張り詰めていた気がする。感情に振り回されるほど未熟ではなかったと思ったのだが…。
「何を戸惑う。犬御神は破壊と創造の神と呼ばれているが、それは表向き。主の二つ目の顔は、感情の神。なればこそ、下界が感情の大陸と呼ばれておるのだ」
「かん…じょう?」
先の衝撃で気を失った男が、彼女の後ろの壁に横たわっている。 上の階が騒がしくなるのを横目に、彼女は歩を
ゆっくりと進めた。どうやら先ほどの衝撃で菘は黒冬の陣を破ったようだった。
「流石は世界誕生からいる高精霊だけあるな。しかし、それ以上来て見ろ。私とて、神の端くれ」
「どうするというのだ」
彼女は微笑む。その動きと共に、ひしひしと殺気を感じた。
「命を貰い受ける」
「この神聖な身を、その剣で引き裂くか。益々、犯罪者として名を上げることとなろうのう」
「構わん」
「黒冬殿!いけない!花雪の元へゆかねば、彼女が壊れてしまう!」
その言葉に黒冬の気がそれた。弾かれるように肩を跳ね上げた黒冬に、菘は鎌を振る。蒲公英は驚きと恐怖の余り、 声も出なかった。しかし、黒冬の額に何かが当たった。
石が弧を描き、黒冬の額に当たりにいっている。
黒冬は倒れるままに牢の影に吸い込まれ、どこからか飛んできた石も、黒冬の後を追うように影に消えた。
一瞬の出来事であった。
「闇者か」
菘がそちらに視線を向けながらも、蒲公英に何かを投げてよこした。
取る気はさらさら無かったが、その色と柄に見覚えがあり、落としてはならないと瞬時に判断し、両手で掴んだ。それは、安寧から貰った蒲公英の牡丹唐草模様の刀であった。ここの兵に没収されていたのだが、何故菘がこれを手にしているのか?
その時、一瞬の気の緩みがうまれた。
蒲公英ははっと身構えたが、 遅かった。
「暫(しばら)く」
菘の顔が目の前にあり、彼女の吐息が鼻腔をくすぐった。
精霊の、爽やかな五月の風のような香りがした。
場違いな心の緩みを感じながらも、 蒲公英は足から力が抜け、目を開こうと気を持ち上げるが、それを上回る倦怠感に襲われ、 寝台に手を掛けながら意識を途切らせた。
耳の奥から、兵たちの喧騒や、騒音が聞こえたが、それすらも蒲公英を覚醒させるには至らなかった。
ただ、内側のどこかから、まるで蒲公英を守るかのように、チリーンという涼やかな鈴の音がはっきり聞こえた気がした…。
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…#33へ続く▶▶▶
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