#05【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
■前回のあらすじ■
白天社(はくてんしゃ)に帰った蒲公英(ほくよう)は、男子禁制の母子山(ぼしざん)に唯一入山を許された男達である門番に呼び止められる。
内容は「安寧(あんねい)が泣いていた気がするが何かあったのか?」というものだった。
そんな訳がないと言いながらも、心当たりが全く無いわけではない蒲公英は少し思案する。
その際、門番とのやり取りを早々に切り上げたい蒲公英は、無意識に彼らが呼び止める手を後ろも見ずに制した。
彼らは蒲公英が社に入って行った後に、その事について「神の御住まい」と称し、「触らぬ神に祟りなし」と職務に戻った。
白天社に入り、自室に向かおうとする途中。
蒲公英は社内の友人の部屋の前を通りかかる。
小言の多い、心配性な友人、蓮華(れんげ)が蒲公英を待ち構えていて、
「危ない護衛の任務を辞めた方が良い」
と助言するが、同僚の千代と蒲公英にあしらわれ、心配を無下にされ、憤って部屋から出て行ってしまった。
彼女は何か言いたげな顔をしていた。
千代も「こちらにも色々ある」と含みを持たせつつも、「迎えに行ってやって欲しい」と頼んできた。
蒲公英は蓮華と話をするべく、まだ冷える廊下を出て、蓮華を探しに行く事にしたのだった。
続きまして天の章、第五話。
お楽しみください。
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#05【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
羽織を着ている蒲公英(ほくよう)にも、今夜の風は冷たく感じられた。
安寧も気に掛かるところだが、今は目の前の少女にかける第一声を考えなければならない。
寮の角の壁越しに、小さな掘立小屋(ほったてごや)のような離れがポツリと見えるが、それは蒲公英の部屋であった。白天社の北の角に急遽建てられたものだったが、造り自体はとても立派なものであった。
蓮華は蒲公英の部屋が見える廊下で一人、外を見ていた。
この寒空の下、暗闇の中で上着も着ず、白い着物一枚で立っているその姿は、
優秀な彼女の背をさらに華奢に見せ、その重圧に耐える哀愁を感じた。
壁の向こうには謡谷(うただに)があり、その中でも高い山は壁の上から少し見えるのだが、昼間には桜に霞む神秘的な姿を見る事が出来る。
今は夜の帳に遮られ、ただ木々が揺らいでいる程度にしか見えないが、そこから舞い込む花びらは淡い光を湛え、闇に光の波紋をつけていく。
ふと、目の前に舞い込む桜の花びらを素早く捕らえて、ゆっくりと手を広げてみた。
「…強引に掴むから、花びらが折れちゃうのよ」
蓮華がいつから見ていたのか、蒲公英にじっとりとした視線を送りながらそう言ってきた。
彼女を見てから花弁を見てみると、純白だった花弁には幾筋かの線が入り込んでしまった。
時が経てばこの折り目が茶色く変色してしまうことだろう。
もっとも後々は金雲として風に流れるのだろうが…。
蒲公英は蓮華の言葉を聞きながら昼間の安寧の言葉を思い出していた。
不思議そうに腕を組んでいた蓮華は、いつもきっちり揺っているその戒めを解いて、
漆黒の垂髪(すいはつ)を揺らして、心配げに蒲公英を見てきた。
蒲公英は、花弁か地面かの境辺りを睨んで動きを止めていた。
「蒲公英?」
「あ、いや…」
そう言っていつもの調子で笑うが、蓮華は気になって仕方がない。
しかし、頑固な蒲公英は詰め寄ったところで素直に話してくれるとも限らない。
蓮華がヤキモキしていると、蒲公英は珍しく自ら話し始めた。
「今日一日で…、色々あったからかな。…考えてしまった」
眉を下げつつ蒲公英が言うと、蓮華は言葉足らずの蒲公英を見やりながら、言う。
「…そうね。生きていれば、色々あるものね」
次の言葉が出てくるかと、適当な相槌を打った蓮華であったが、蒲公英は驚いて蓮華に振り返り、凝視した。
「な、何よ…」
「安寧様も…今日、同じ事を言ったんだ…」
へぇ?と、蓮華は安寧と同じセリフを言った事にまんざらでもない顔をしたが、蒲公英の浮かない顔を見てその笑顔を引っ込ませた。
いつもの蒲公英ではない為、どうも調子が狂う蓮華は少し心配げに蒲公英を見る。
すると、蒲公英はポツリ、ポツリと今日の一部始終を蓮華に話した。
蓮華は彼女らしい気遣いのある態度で終始話を聞き、頷きながら聞いてくれた。
「そうだったの…。どうしたのかしらね…。具合が悪いですとか、そういった次元の話しではなさそうだわ」
「うん…まるで…」
遺言。
そう自然に言いかけた蒲公英は背筋をゾクリとあわ立たせ、何を考えているんだと激しく首を振った。
自分で思っておきながら総毛立ち、中々収まらない。
しかし…、これ以上しっくり来る言葉が今の所見つからない。
一度考えてしまうとその言葉がもう離れなくて、今すぐにでも安寧の安否を確かめに行きたいぐらいだった。
青い顔をして言葉を途切らせた蒲公英を見て、蓮華はそっと蒲公英の背に手を添える。
「大丈夫よ、蒲公英。安寧様は…やはり神様なのだから」
楽観はしたくない。肩書で括りたくはない。
しかし、今はそう思う事でしか自分を保てそうに無かった。
気休めだと分かっていても、自分にできる事など無い。
疲れた顔をした友人の手前、蒲公英は頷く他無かった。
ふと、鼻先を桜の花弁が舞う。二人は自然とその基軸を目で追っていた。
「桜、綺麗ね…」
「謡谷からだね。まだ満開じゃなかったよ。それなのに、あそこに流れる川はもう、花びらで一杯だったよ」
蒲公英は何食わぬ顔でそう言いながら、蓮華に自分の羽織をかけながら言う。
が、蓮華は弾かれたように蒲公英に振り返り、眉を顰(ひそ)めた。
「え?蒲公英、どういう事?貴女、あそこに行ったの?」
「そうだけど…」
そう呟くと彼女は信じられないものを見るかのように蒲公英を見て、言葉を失った。
「あ、普通はあそこの霞やら幻やらで踏み込めないんだったね。私は今まで迷った事無いけど、あそこで」
桜海とは名ばかりで、神々は死の海とも呼んでいる。
神ですら迷い、惑わされるという山は、ある意味桃源郷と呼ばれる由縁なのだ。
それを聞くと蓮華は溜息とは違う、深い息を吐きだした。
「私…。たまに、貴女が遠い世界の人間だなと思ってしまう事があるの」
まるでそんな事は無い。と、蒲公英が笑うと、彼女は首を振った。
「いいえ。本当に。貴女には光が見える。それも、普通じゃないわ。もっと大きくて、計り知れない光。神様なんじゃないかって、思う事があるのよ」
嘘の無い目で彼女は言うが、まるでそんな気配すらない自身の身体に、その言葉は飾りにすぎないように感じた。
蓮華は蒲公英よりも少し背が高い。
目線を上にやらなくてはならない時、蒲公英はもう少し身長が欲しいと、蓮華と並ぶたびに思う。
そんな事を考えているとは露とも知らずに、蓮華は尚も言う。
「貴女と最初に会った時も、そう、場所が場所だけにとも言えるけれど、何の神様かなって思ったのよ。口数が少なくて、俊敏な動きをして…とても、凛々しい顔つきをしていたから…。けど…」
「ん?けど…?」
含みのある言い方に蒲公英が聞き返すと、蓮華はぷっと吹き出し、
蒲公英を見ながら口を押え、腹を抱えて笑いながら言った。
「いつもボーっとしてて、階段踏み外したり、変な事言い出したり、間の抜けた顔をしてみたり、人間なんだなって思って!」
そうだっけ?と蒲公英が考える。
と、蓮華は蒲公英の黒い装いを見て言う。
「あの時も…。私と初めて出会った時も、蒲公英、同じようなカラスみたいな服着てたわね。正装、だったのよね…」
蓮華と出会った日は、自分が小姓兼護衛として初めて外に行く日だった。
初めてこの着物に袖を通した時だったことを言うと、
蓮華は“そうだったの…”と、少し寂しそうに呟いた。
卯月の頃だったか。
桜海の桜が、階段や踊り場を桜色に染め上げている時期。
蓮華は誤って階段から落ちそうになったのだ。
白天社に預けられる意味が分からず、
幼い蓮華は両親に捨てられたのだと思い、自棄になっていた。
そんな蓮華を見かねて師匠である臥待(ふしまち)が内心は授業をしないで済むように、口頭では頭を冷やせるように課したのが、白天社の階段掃除だった。
やがて金色の粉となり、金雲となる花弁を掃除する必要は無いのだけれども、ただ形だけのものだった。
しかしこの親切は、箱入りだった蓮華には理不尽さを増す出来事のように思えたようだった。
そんな折、蓮華は誤って階段から落ちそうになったのだ。
それを間一髪。蒲公英が手を取り、助けた。
階段は冗談では済まないほどの長さがあり、転げ落ちたら命を落とす危険性があった。
「貴女はどうか知らないけれど、私を含む白天社の修行女達は“生活を営む者”。他の人達と違い、“死”がありうる者。あの時蒲公英が助けてくれなかったら…。私は死んでいたかもしれないわ」
「…」
蒲公英が黙っていると、蓮華は「ねえ」と首を傾げた。
「何であんなに丁度良く現れてくれたの?やっぱり、神様なのかしら?」
この世界に、病や死は無い。
蓮華含む白天社の者らと、ごく一部の意識して生活を営む者達は、当たり前のように死が訪れる事がある。
理由は蒲公英も知らない。安寧に聞いても、笑顔ではぐらかされてしまう。
蒲公英は半分ふざけているにも、半分真面目に聞いてくる蓮華に、歯切れ悪く言う。
「いや…分からないんだよね。実は。…それほど危険な状態だと思ってなくて…」
蓮華は訝(いぶか)し気にこちらを見て、腕を組む。
「え?じゃあ、何で…?」
「本当に良く分からないけど、何か手が出たというか…。たまたまだった、というか…」
心底困ったように蒲公英が苦笑しつつ言うと、蓮華は数秒黙ってから「確かに?」と、拗ねながら腰に手を当てて言う。
「あの時のあなたの言葉と言ったら?なにしてるの?だったし?泣いている私を不思議そうに見てるだけだったし?ほんっとうに貴女は人をおちょくるのが得意よね!」
「そんなに残念だった?」
蓮華はまたコイツは!と思い、蒲公英を睨むが、まったく悪意の無い毒気を抜かれる表情にまた調子を狂わされて、
「残念だったわよ!」
と、叫ぶ事になってしまった。
確かに。
蒲公英は当時を振り返る。
この世界に「涙」というものを流す人間がいるのだと、当時蒲公英は泣いている蓮華をまじまじと見てしまっていたのだ。
今もむくれる蓮華に謝りつつ、苦笑しながら、蒲公英はまた、漆黒の謡谷を見詰めた。
「ねえ、蒲公英」
そう言って、蓮華はまた機嫌を直して蒲公英の肩に手をかけた。
何か話したそうにしていたのに、蒲公英が振り返っても彼女は何も言わなかった。
それどころか、どこか遠い虚空を見つめながら固まっている。
その表情と静けさが昼間の佐保姫と重なり、寒気がした。
声をかけようにも、それすら躊躇させる鬼気とした雰囲気に何も言えず固唾をのむ。
「え?何?」
蓮華の第一声はまず、それだった。
言葉だけならまだしも、彼女は蒲公英を凝視している。
怪訝そうに蒲公英は蓮華を見返したが、彼女の意志はここには無いのか、一度身震いしたり、辺りを見回すように瞳が動いている。
ただ、終始口は半開きで、眉根に皺が寄っていた。
一頻(しき)り彼女は百面相をした後、ふと、蒲公英に向き直った。
「犬。蒲公英、犬よ」
「…」
またそれか。
と思いながらも、蓮華の次の言葉を待つ。
安寧に伝えなければいけないかもしれないからだ。
蓮華にはそういった力がある。
しかし、こんな状態になった事は無い。
蒲公英は少し彼女が心配になった。
蓮華は自分の体を抱いて、思案しているようだった。
顔色も悪い。
「貴女は犬なの。四方の兵を連れて、宮と支(つか)に当たる者と対峙していた。
破壊と創造。神と精の間の子。
…嘗ての過ちを正し、全ての因果の螺旋を今こそ断ち切る。
全てが整った今、各々奮い立ち、今こそ終焉を迎えよう。
破壊の後の新しい芽吹きの為に」
「…?因果の終焉?何?何故皆私を犬と言う?」
この重要な問いかけの最中に折り悪く、向こうから人の気配がする。
蒲公英はスッと表情を無くし、黙った。
「どうかした…」
蒲公英は尚向こうの生垣の角を見ながら黙り、蓮華を手で制す。
蓮華が振り返るとそこには小袖を着た女が一人、打掛を頭に被りながら少し急ぎ足で駆けてきた。
安寧が招いた客ならば、専用の入口があるはずだが…。
橙色の小袖は目にも鮮やかで、山吹色の打掛とよく合っていた。
とても軽い足取りで走っていく姿を蒲公英は目で追う。
通り過ぎ際に目が合ったが、色白で切れ長の目は、今まで見たことが無いほど美しかった。
もしかしたら、安寧よりも綺麗かもしれない。
「強いて」
と呟くと、すれ違った女はびくりと足を止めた。
蒲公英は穏やかな顔をしているが、目は冷たく冷えていた。
「強いて咎めは致しませんが、感心しかねますね」
女は少し戸惑いながらも、小さく会釈をすると、先ほどよりも早い小走りで闇に溶けて行ってしまった。
彼女を見送りながら、蓮華は蒲公英に目だけを滑らせ言う。
「蒲公英、あの人誰かしら?良かったの?」
「彼女は恐らく、精霊だよ」
「分かるの!?」
「爽やかな春の香りがしたし、顔が整っていたから…」
そんな匂いしたかしら…?と蓮華が首を傾げる。
しかし、この時間に面会とは珍しい。
精霊が走って行った方句は安寧の部屋の方角だ。
「私は鼻がいいから。あ、そこらへんが犬なのかな?」
「違う!…と思うわ…。と、いうより蒲公英!真面目に取ってよ!本当に私、色々見えたのよ!?私のこの妙な力、気味の悪い事に一度も外れたことが無いのよ。蒲公英も知っているでしょう?だから、十分に注意して…」
蓮華は何か言おうとする蒲公英を遮り、更に言う。
「貴女はいつも、いつも!自分を犠牲にして他人のことばかり…!いつも愚直に、まっすぐで…」
「蓮華、私は…」
「貴女の言わんとしていることは分かっているわ。私もしっかり自分を見つめているつもり。でも、貴女は違うでしょう?貴女は自分を省みようとしない。自分を愛さない人に、本当に望む未来はやってこない。自分を大切にして、蒲公英。お願いよ」
胸が、息が出来ないような。握られて詰まったような気がした。
心配気な彼女の瞳から逃げるかのように、蒲公英は少し目線をずらした。
「分かった。そうするよ。蓮華、明日も授業があるんだよね?そろそろ寝ようか」
蒲公英は早口でそう言い、自室に向かった。
これ以上蓮華から聞いてはいけないような気がして、正直逃げてしまった。
何か、得体のしれない何かが、自分の中で蠢(うごめ)くような気がした。
「ちょ、ちょっと蒲公英!羽織!」
「あ」
蓮華の肩にかけていた羽織を忘れていた。
慌てて戻って来た蒲公英は、いそいそと羽織を手にして、袖も通さず丸めると、先ほどの女と同様。闇の中に消えて行った。
暫くして、蓮華は蒲公英が消えて行った暗闇に向かって言った。
「分かっているわ。蒲公英。結局、貴女がこの運命に立ち向かう事ぐらいは。そして私達が何れ、遠い所に離れ離れになるという事も。だけど…!」
金の粉を孕んだ風が、あちらから蓮華の元に流れてきて、
憂い、すすり泣く少女を取り巻いた。
絶望の涙ではなかったが、闇の中、冷風に吹かれての孤独は、それに似た切なさがあった。
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…#06へ続く▶▶▶
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