#07【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
■前回のあらすじ■
蒲公英(ほくよう)と蓮華(れんげ)の前を横切り、夜中に安寧(あんねい)の庵(いおり)を訪れた人物は、高級精霊である「蘿蔔(すずしろ)」という男精霊であった。
彼は安寧の庵で、安寧から兼ねてから計画していた事を実行すると言われ、協力を促された。
蘿蔔には思う所があるようだったが、蘿蔔が生きた六千年の間に安寧との何某(なにがし)かがあるようで、蘿蔔は結局、安寧に協力する事を承諾した。
蘿蔔の初めの仕事は、蒲公英を安寧のもう一つの隠れ家である謡谷に連れて行く事だった。
一方安寧は、蘿蔔が姿を消してから意味深な事を呟き、長く居た白天社の庵から姿を消したのだった…。
続きまして天の章、第七話。
お楽しみください。
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#07【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮
蒲公英は立ち止まり、後ろを振り返った。
咲き狂う桜の群れの中には人影一つ無く、風に吹かれて舞い上がる桜の絨毯(じゅうたん)の下には、更に桜の花弁、そして、母子山(ぼしざん)同様、金の粉が揺れている。
静かな如月の終わりに、独り、花見がしたかったと言えば聞こえは良いが…。
蒲公英は肩から大きく溜息を吐いた。
眼前には、古びて傾いた鳥居がある。
小さくて古ぼけたその鳥居には塗装がしてあったようだが、
それもすっかり剥げ落ち、しめ縄も色褪せている。
その鳥居の横には、何の変哲もない割に妙に存在感があるやや大きめの小岩があり、「近…大…社」と、書かれている。後は風化していて文字がハッキリ読めない。
頭上ギリギリの鳥居を潜ると、湿った岩肌の洞窟があり、目的地に向かうにはそこを抜ける必要があった。
とは言っても五歩も歩けば抜けられるのだが。その先には外では見た事が無い景色が広がる。
上から見たらここは断崖の底なのだろう。
周りは土の壁で覆われており、月灯りが綺麗な池にさしている。
どこからか静かに湧いているのか?この池はいつも同じ水量で、綺麗さを保っている。
頭上の断崖の先の、ぽっかり空いた穴から、月と、その光。
そして、地上の謡谷の桜がひらひらと舞い込んできている。
ここから見上げると、断崖上の桜の木々達が光る雲のように見え、その合間に月が浮かんでいるようだ。
またそれが、とても綺麗だ。
草のやや少ない土を歩き、池の傍にある大岩に飛び乗った蒲公英は、刀を腰から外してその大岩に座った。
右手には断崖の壁から薄く突き出た、大きな一枚岩があり、
その下に何かの社があった。
また、ひらりと、桜の花弁が舞い降りてくる。
その花弁はふわふわと落下していき、水面に“てん…”と、落ちた。
花弁は波紋を作り、周りの水面で揺蕩(たゆた)う花弁を、ゆらゆらと揺らす。
「お前はいい…」
蒲公英は苦笑しつつ、その花弁を見つめた。
「お前はそうやって、光の春に祝福され、ただ、“桜”として咲き、様々な者達に惜しまれながら、ただ…美しく散っていくだけでいいのだからな」
褪(さ)めた色の闇に浮かぶ桜は、狂おしいほどに艶(あで)やかに存在を主張していた。
外程ではないが、冷たい風が髪を散らし、襟巻(えりまき)を靡(なび)かせた。
湿気に反応して巻きを強くする漆黒の髪は、一体誰譲りなのだろうか?
とにかく、邪魔で仕方がない。
安寧のような、長く美しい髪であればと、何度思った事だろうか。
自分がどこの出生の者なのかが分かれば、せめてもっと心安らけく、何の迷いも無く、こんな自分ではなく、もっと上手に安寧に仕えられていたのだろうか。
そんな事が日々、浮かんでは消え、消えては増えて浮かんで。
ここに来るのは、それら雑念を祓う為だ。
ここにはいつも誰も来ない。
いや、来れない。が、正しいかもしれない。
謡谷は、神ですら迷うと言われる森。
蒲公英以外、四季の姫ですら行かないと言われている森。
蒲公英も、ここにしょっちゅう来ているが、今まで誰とも会った事は無かった。
蒲公英は逆に、一度も迷ったことが無い。
それは自身でも不思議に感じていた。
ここは、いつも静かな時間が流れる。
水の湧く音と、滴る音。
それから、風と、葉擦れの音が木霊する。
時折それが歌と聞こえ、誰かが遊んでいるような錯覚も起こる。
ここではそれすらも、蒲公英は楽しんでいた。
しかしそのせいか、蒲公英は“夢”も見てしまう。
自分がこの世界の大切で、重要な存在で、ここから出た外でも、そういう存在になっているという“夢”を。
岩に寝転がりながら、「ずっとこうしていられたらいいのに」と思ったりもした。
けれど、いつも白天社に帰る。
それは、仕事が好きという事になるのではないだろうか?
しかし、ならばどうして、こんな憂鬱な気持ちになるのか?
安寧の小姓として護衛として働けて、話せる人間もいる。
満たされているはずなのに、何故いつもここへ来て、荒んだ心を癒しているのか?
闇夜に溶け込むことなく、異質に際立つ黒い着物。
月の光と金雲の霞に、淡く、時折輝く。
膝に頭を埋めると、仄(ほの)かに冬の姫の香の香りがした。
彼女から頂いた襟巻は、今の蒲公英にとって、
冬には欠かせないものになっている。
以前、泉の神から頂いた耳飾りを、断りを入れて、
冬の姫に差し上げたその代わりに、彼女はこの襟巻をくれた。
深紅の布で、端には蓮の飾り縫いの柄が入っている、立派な代物だった。
この紋は、冬の姫の紋。
貴重な一品であると、後から知り目を白黒させた事ものだった。
懐には、心配性の蓮華から貰ったお守りが入っており、
肌身離さず佩(は)いている刀は、安寧から頂いたもの。
髪結いの紐は、水菜から貰った。
『なのに何故、私は貰うたびに空しくなる?』
頂き物をする度に、空しくなる己。
“ありがとう”という、自分が発する言葉が、毎度遠くに聞こえる。
与えてくれる者に、自分は何も返せない。その想いなのかもしれない。
蓮華の言う通り、自分を大事にしていないのかもしれない。
しかし、彼女の言う「自分を大切にする」その、大切にしなければならない為の、自分の価値というのが見えてこない。
振り切るように鍛錬を毎朝欠かさずやっていても、朝日が味気なく感じるのだ。
「ッ!?」
突然の気配に、蒲公英は振り返る。
ほぼ、反射であった。
“チッ”という、金属音と、さや滑りの乾いた音。
気配の主と目が合うのは同時だった。
瞳を見た瞬間、何故か蒲公英は久しぶりに寒気を感じた。
そこには、1人の男がいた。
いつの間に、この背後の男は
自分に気が付かれずにここまで来られたのだろうか?
彼の全体を改めて見れば見るほど、ほとんど自分との距離は無い。
“気を緩め過ぎたか…?”と、蒲公英は自問自答する。
それにしても、の、距離だ。
蒲公英が鞘から引き抜きかけた刀と、彼の持つ羽織が、2人の狭間で同距離で境を作っている。
いや、相手に戦意が無い分、蒲公英の刀が少し彼の肩と首の間にあり、羽織を挟んでだが彼に当たっている。
それが逆に、相手を空恐ろしく感じた。
勢いで少し揺らいだ羽織の裾が、重力と共に地に重心を移して、岩の上に波打った。
藍色の、大きな羽織だ。
とても大きいので恐らく彼のだろう。
目の前の男は、瞬き以外微動だにしなかった。
男は、こんな夜に明かりも灯さず動き回っており、体がほんわりと緑色に発行している。
それは、彼が精霊である事を意味していた。
『精霊が、人間に近寄る…?』
そんな話しは聞いたことが無い。
精霊は神の加護の元に居る。
特に神聖な存在であると言われているのだが…。
こんな風に人前に現れた例など、
千蘇我(ちそが)広しと言えど、恐らく無いだろう。
白天社では場所が場所だけに驚かなかったが、ある意味「死の海」と言われるここでは、流石に誰かが来るだけで驚きだ。
まして、精霊とは。
しかも、自分とこんな間近で。
白磁の肌に、木漏れ日を映す湧き水のように澄んだ瞳。
切なげなその眼は、蒲公英の眼を見て離さなかった。
印象的な純白の髪は、闇では太陽の光のように眩しく感じた。
「蒲公英…」
その声の深さと美しさに、蒲公英の心臓が跳ね上がるが、どこか懐かしくも感じた。
とにかく、何故か不思議な感情が、肚の底から湧き上がって来て仕方がなかった。
この状況で精霊が警戒もせず、親し気に名を呼ぶなんて、一体どういう事だろうか?
蒲公英は首と肩の際に当てている、自らの刀の刃を見ながら、眉を顰(しか)め、問う。
「このような場所で精霊の方を斬るのは忍びない事です。…ご用件は?」
すると、長く白い髪を首元で束ねた男は、ゆっくりと体を離して跪座(きざ)をした。
そのあまりの姿勢の良い、美しくも堂々とした風貌に、蒲公英は今まで感じた事の無い気品と共に、威圧を感じた。
丹田から来るその力の圧は、彼はただものではないと直感させる。
だが、彼の眼は相変わらず、今にも泣き出しそうな、哀愁漂う瞳をしている。
少し間を置いてから、彼はついと、頭を下げた。
「私は春の七草の精霊、蘿蔔(すずしろ)と申す者にございます。安寧様の命により参上致しました」
「安寧様…の?あなたが?」
「はい。お言伝は、“すぐ戻るように”との事」
蒲公英は、眉を顰(ひそ)めた。
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…#08へ続く▶▶▶
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