​#08【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮

 

​■前回のあらすじ■

​蒲公英(ほくよう)は、どこまでも桜の山が続く、母子山(ぼしざん)の隣の謡谷(うただに)に一人向かった。

​ここには蒲公英は迷いなく来られるが、この地の別名は「死の森」と言われ、神をも迷わせる、一度入れば出られぬ森として有名な場所であった。

​蒲公英は悩み事があるといつもここに一人で来ては自問自答し、整理をしているが、今回の一連の出来事はとても消化できるものではなく、時が経つのも忘れ、悶々と考え込んでいた。

​いよいよ余計な事を考え始めていると、ここは神も近寄らぬ“死の森”だと言うのに、急に背後から気配がし、蒲公英はその相手に刀を向けた。

​背後に居たのは、春の七草の精霊「蘿蔔(すずしろ)」という男であった。

​精霊は姿を見る事すら希少であるというのに、彼は堂々と蒲公英の間近までやってきて、
​「安寧(あんねい)の命により、蒲公英に言伝を伝えに来た」
​と言うが…。


​続きまして天の章、第八話。
​お楽しみください。


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​#08【巍峡国史伝】天の章 伏せる月、ふるえる睡蓮


​安寧が蒲公英に対して、帰社の促しを受けたのも初めて、誰かの言伝で促されたことも初めて、しかも、見知らぬ者を使いに寄こした事も初めての事であった。

​訝(いぶか)しみと、疑問が脳裏に湧く。


​「失礼ですが、…すず、しろ殿?…安寧様とは、どういうご関係でいらっしゃいますか?」


​彼は顔も上げずに“安寧殿は、我が主”という回答をしただけであった。


​安寧が神とは言え、白天社もある事だ。
​男の、しかも精霊を傍に置くなど、一体全体どういう心境なのか?
​黙って思案していると、彼はぽつりと呟いた。


​「七千年前、大地の女神によって命吹き込まれた体。この蘿蔔は春の七草の一人。齢七千歳の精霊でございます。安寧様のお力により、封印されていた魂をこうしてまた、この地に呼んで頂いた次第にございます」


​その言葉に衝撃を受けて、少しばかりたじろぐと、微妙な力関係で彼の首と蒲公英の刀の狭間にあった羽織が、力なく一枚岩に伏した。


​「何故…」

​「蒲公英様。…如月の祝典(きさらぎのしゅくてん)をご存じですか?」


​蘿蔔は顔をやや上げて朗らかに言う。

​心なしか口元が柔らかい気がするが、刀は怯んだとはいえまだ彼の首元にあるにも関わらず、だ。

​蘿蔔と言うこの男は、この刃の事など全く意にも介していないかのように振舞う。
​蒲公英は馬鹿らしくなり、警戒をしながらもやや、刀を降ろす。


​「まあ…一応知っていますけど…」

​「実は、あの戦いに私も参加しておりました。私からすれば短い戦いでしたが、人からすれば千年単位の…長い戦いだったのでしょうね」


​何を言っているのだ、と、蒲公英は蘿蔔の目を見上げるが、当の彼は蒲公英を通り越して、後ろの湖を見ているようだった。

​何とも言えない、形容しがたい表情をしている。
​誰を見ているのか?何を憂いているのか?そんな顔だった。


​「現在、御伽草子として語られているものは、意図して作り変えられてしまったからです。
​内容も、ほとんど嘘ですよ。本当は、もっと残酷で、悲惨で、悲しみが渦巻いてました。
​しかし、それも…“愛”故だったのかもしれません」


​精霊は長生きだと聞いた。
​神の命が永遠ならば流石にそれには及ばないかもしれないが、近いものがあると言えよう。
​生きる年数も精霊によってまちまちだが、とにかく、この千蘇我(ちそが)という地において、平均百五十年は健康で若々しく生きられるという話しだ。


​しかし…。
​七千年生きる精霊は、古文書にも載っているか怪しいものだ。
​七千年前と言うと、この千蘇我が誕生した頃になってしまう。
​つまり。この目の前の蘿蔔という男は、世界が誕生した時からすでに存在していたという事になる。


​『それは最早、精霊と呼んで良い存在なのだろうか…?』


​封印を解かれ、今尚生きているとしても、生きた化石のようなものだ。


​経緯は分かったが、理解しきれないで黙っていると、彼は小さく笑った。


​「今一度に全てを言っても、何も心に留まらないでしょうけれども…。何分、時間がありません。蒲公英様、この世には、世界は二つございます。ここともう一つ。こちらでは“地獄の地盤”と呼ばれる下界が」


​まるで、自分まで御伽噺の世界に入り込んだかのような話しだった。
​足場の無い感覚を覚える、不安定な世界の拡張に、蒲公英は受け止めようにも実態が無いようで捕らえられない。


​「今、その下界と千蘇我の地で諍いが生じております。近いうち、必ず、またあの惨劇が始まる事でしょう」

​「不審な事を言う」


​思い当たる節があるにはあるが、初対面の信用ならない男に言われると受け入れるのは困難だ。
​蒲公英は、不吉な言葉を放つこの男から逃れたい。
​そう思ったが、心の奥底のどこかが“しっかり付き合わなければならない”と言っているようで、動けず、耳を傾ける他無かった。


​「安寧様がいらっしゃるのに、そのような事になるなど、到底考えられない」


​蘿蔔は、少し黙った。
​動くのは前髪と、その前髪の影。腰に巻いた柔らかな赤い布の先だけだった。
​しかし、目だけはしっかりと、蒲公英の瞳を見て離さず、微動だにしない。
​それに身を引くと、彼は重い口を開いた。


​「……如月の祝典。ここには、必要不可欠な人物が居ました」


​不穏な気配が彼からするが、何故か彼がそう言った瞬間“ざわり”と、心がざわめいた。

​その彼の語り口調が、熱を帯びているからなのか?
​急に引き込まれた気がした。


​「彼女は御伽草子には出てこない。何故か?
​如月の祝典が、如月の祝典であった由縁。
​地獄の地盤が出来、今日がある理由。
​全て、彼女に繋がり、彼女から始まっているのです。
​…そうだな?犬御神(いぬみかみ)」


​蘿蔔が語気を強め、蒲公英の手を取る。
​するとその瞬間、蒲公英の一枚岩の上に緑色の光の輪が出来た。


​そうかと思うと、みるみる間に、知らない古代語のようなものが羅列して絵描かれて行き、光の輪が更に増え、何重にもなっていき、何かの模様を作り上げていった。


​「何をする!?」


​蒲公英も声を荒げて異を唱えるが、蘿蔔は強い視線で蒲公英の瞳を見返していた。


​「些(いささ)か乱暴ではあるが、さっき言ったように時間がありません。話をするだけですので、そのままでいてください」


​言い終わるか否か、蒲公英の目の色彩が変わっていった。
​薄い赤茶の色に変ったかと思ったら、下のほうからみるみる満月のような金色に変る。


​髪の毛も色が薄くなり、灰色のような、銀色のような長髪になった。


​体全体から蒸気のような白い炎をくゆらせ、蒲公英の体は、蒲公英とは全く別人の気配をかもし出した。


​総毛だつほどの気迫。
​圧倒的な存在感。
​安寧も蘿蔔も霞むほどの、全てを飲み込むような覇気が、静寂を守るこの崖下に充満し、


​ザワザワザワッ!


​と、生きとし生けるもの達が騒めいた。
​地も微かに揺れている。
​そして、一気に涼やかだった精錬な空気が、暑くなった。


​「何も語るな。犬御神。良く我が問いかけに答えてくれた。…お前に、言いたいことがあっただけだ」


​まるで別人となってしまった蒲公英に、蘿蔔は言う。
​蒲公英よりも近しい関係への口調だが、強い緊張感があった。


​すると、“犬御神”と呼ばれた蒲公英が、「ふっ」と笑う。


​「七十と三の月日を巡り、未だ女神に尻尾を振るとは。大地の女神の犬はどちらぞ」


​蘿蔔は少し緊張感を緩めると、同じく微笑み、犬御神の頭に手を伸ばし、その頭を撫でた。


​「そう言ってくれるな」

​「…ようやっと、思い立ったか。悪くはあるまい。が、我が魂と娘の魂は同じ。我が終焉はコレの終焉。良いのだな?」


​“コレ”と言い、犬御神は体を指差した。


​「…流石だな。…私が言いたい事を、すでにお前は知っているのだな…」


​蘿蔔が目を閉じて下を向く。苦悶の表情をすると、足元の緑色に光っていた文字や記号が出来た時とは反対に、どんどん消えて行った。

​犬御神は横目でそれを見る。


​「草が神も心乱すか。神が心を乱すなど、笑い種よな。気を付けよ。知っていると思うが、大地の女神は人心掌握に長けておる。これもまた、その一種の“呪い”よ。案ずるな」


​間際に犬御神はそれだけ飄々と蘿蔔に言いのけると、犬御神は蒲公英に戻り、その体ががくりと力が抜け、倒れかけた。


​目を閉じ、起きない蒲公英の体をふわりと受け止めた蘿蔔は、1人呟く。


​「知っている。嘗(かつ)てはそうであった。…が、犬御神よ…。今はそうは思えぬのだ。今は何故か…」


​そう言いかけて蒲公英を支えている左手の反対側、右手の平を見つめた。

​真っ赤になり、酷い痛みがある。
​常人では触れもせず、触れられたとしてもその手が溶け落ちていた事だろう。
​完全な犬御神とならないまでも、その炎はすでにこれだけのものを持っていた。


​破壊と創造の神。
​彼女は果たして、完全体になった時どう出るか…。


​「う…」


​蒲公英が苦し気に呻く声がした。
​気が付いたが、思うようにまだ動けないようだ。


​「やはり、力を封印されている今、“蒲公英”を保ちながら犬御神として会話するのは、今後、できればしたくないな」


​犬御神は蒲公英。別人が住み着いているわけではない。
​転生した犬御神は確かに蒲公英であるが、犬御神でもある。
​別人であるのに同じ人物で、同じ人物であるのに別人なのだ。


​蘿蔔は蒲公英を抱え直し、その胸に抱くと、震える手を伸ばし、蒲公英の前髪を払おうとした。


​その瞬間、蘿蔔は蒲公英をその一枚岩の上に置き去りにして、カモシカのように後ろに跳んだ。
​上から、黒い者が落ちるようにして、刀を振り下ろしてきたのだ。

​一瞬の出来事であった。
​その全身黒い装束の男は、蒲公英の前に陣取り、しゃがんだまま刀を構え直した。


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​…#09へ続く▶▶▶

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